オランダアート倶楽部

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ゴッホ

炎の画家ゴッホ
生前はたった1枚しか絵が売れず、その優れた芸術性が評価されることのなかった孤高の画家フィンセント・ファン・ゴッホ。鮮やかな色彩と独特のタッチで、花、風景、人々を精力的に描き続けたゴッホは37歳という若さで、自らの手で生涯を閉じました。10年という短い画家人生の間に、油彩約900点、素描約1100点を制作。持てるエネルギーを全て捧げ情熱的に描いたことや、そのエキセントリックな行動から、しばしば「炎の画家」と呼ばれます。
「(帽子をかぶった)自画像」
ゴッホ美術館所蔵
オランダ時代
1853年3月30日、ゴッホはオランダ南部のズンデルトという町に、牧師の息子として生まれます。小さい頃から、激しい気性のため、家族を含め、他人との交流がうまくできず、壁にあたる毎日でした。1869年から美術商として成功していた伯父のつてでグーピル商会に勤め、熱心に働き、ロンドンやパリの支店に勤めるが、ロンドンでの失恋により失意。仕事への熱意を失い、商会を解雇されます。その後、牧師を目指し学校へ行き、貧しい人々の為に、自らも貧民のような身形で献身的に活動を行ったものの、生真面目に貧しい人のために尽くすあまりに、みすぼらしい有様が牧師らしくないとされ、1879年に伝道師の仮免許を剥奪されます。

子供の頃から絵を書くのが好きだったゴッホが画家を志したのは1880年、ゴッホ27歳のときのこと。画家初期の時代はオランダ南部の町ヌエネンに、当時牧師をしていた父や家族の住む牧師館の洗濯小屋をアトリエとして、近隣の風景などや織工や農民などを描いていました。この頃の傑作は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。

「馬鈴薯を食べる人々」
ゴッホ美術館所蔵
パリ時代
同年父が逝去し、徐々に地元の人々と折り合いの悪くなっていたゴッホは、翌1886年オランダを飛び出し、当時パリのモンマルトルの画廊の支配人で、家族の中で唯一のゴッホ理解者だった弟のテオを頼りました。以降、ゴッホがオランダの地を踏むことはありません。パリの画家と親交のあったテオに、スーラー、シニャック、ドガ、モネ、ピラロら印象派の画家を紹介してもらいます。なかでもロートレックはゴッホのよき理解者でした。彼らの作品に衝撃を受けたゴッホは、以降、オランダ時代とは打って変わった明るく鮮やかな色彩を用いるようになります。

またゴッホがパリに滞在していた頃は、パリでジャポニズムが流行していた時期です。パリに来る途中、アントワープで出会い、そしてパリで本格的に浮世絵にのめりこむようになりました。400点にものぼると言われる収集した浮世絵を部屋に飾り、赤や緑といった独特の色彩や遠近法を身につけたのです。浮世絵を背景に描いたこの頃の傑作に「自画像」「タンブラン亭の女」「タンギー爺さん」などがあります。
「(画家としての)自画像」
ゴッホ美術館所蔵
南フランス時代
1888年2月、ゴッホは新境地を求めて南フランスのアルルへ。なぜだかゴッホは、日本の風景、日本の光がアルルにあると思っていました。ひまわり畑、葡萄畑、道端に咲くすみれやアイリス、美しい星空・・・などを見ては「アルルは日本のように麗しい」と書いています。南フランスの豊かな自然が生み出す色彩の饗宴に心酔し、ゴッホは意欲的に作品を制作しました。アルルに滞在した15ヶ月の間に、代表作「ひまわり」「夜のカフェテラス」、ゴーギャンと暮らした「黄色い家」「アルルのはね橋(ラングロア橋)」「ゴッホの寝室」「郵便配達夫ルーラン」「ルーラン夫人」「種をまく人」など、300点以上の作品が次々に製作されます。ゴッホが、まぶしいまでの「黄色」を見つけたのもこの頃でした。

同年10月にはパリで出会い意気投合したポール・ゴーギャンを招いて共同生活を始めます。ゴッホとゴーギャンは同じ題材を用いてそれぞれに作品を描いたりしました。芸術へのアプローチの違いやゴッホ自身の激しい気性から、ゴーギャンとの共同生活は9週間程度で破綻をきたします。心を病んだゴッホは自らの左の耳朶(じだ)を切り取り、娼婦の友人へ送りつけるという事件を起こし、アルルの精神病院に収容されます。

1889年、牧師サルの薦めに従い、サン・レミ・ド・プロヴァンスにある元修道院を改装した静かで簡素なサン・ポール・ド・モゾール病院に転院。鉄格子のはまった病室に暮らしながら、外に出ることを許されるとサン・レミの自然を眺め、「星月夜」「刈り取る人」「糸杉」「オリーブ林」といった作品を描きながら、1年程過ごします。この頃になるとゴッホの作品には、独特の≪うねり≫や≪よじれ≫が表れ、ゴッホのファンタジーが加わった、ミステリアスな風景が描かれるようになります。
ゴーギャン「ひまわりを描くゴッホ」ゴッホ美術館所蔵

「アルルの跳ね橋(ラングロア橋)」クレラー・ミュラー美術館所蔵

「種まく人」ゴッホ美術館所蔵

「ひまわり」ゴッホ美術館所蔵

「夜のカフェテラス」
クレラー・ミュラー美術館所蔵

「ルーラン夫人」ゴッホ美術館所蔵

終焉の地、オーベール・シュル・オワーズ
病のため焦燥に駆られ、ひとつところに落ち着けないゴッホは、病状が収まるのを待ち、たくさんの作品を手にサン・レミを飛び出します。自らの死期を感じ、故郷オランダのある北へその心は向かったのでしょうか?1890年5月パリで弟テオとその妻子と再会を果たします。パリでは数日滞在し、知人に会った後、35キロ北西にある静かな田舎町オーベール・シュル・オワーズへ赴きます。ここで印象派の画家と親交の深い芸術好きなガシェ医師の指導を受け、療養生活を始めます。
ここでもゴッホは毎日休みなく取り付かれたように絵筆を取り、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」「オーベールの教会」「ガシェ医師の肖像」など、70日間で60枚を超える油絵を製作します。
1890年7月27日、ゴッホは銃で自殺を図り、その傷が原因となり2日後に亡くなります。亡くなる前の晩には、ずっとゴッホの生活を支え、よき理解者であった弟テオがパリからかけつけ、兄弟で語り合ったと言われています。ヌエネンで画家になって10年、南仏のアルルに移り住み、次々と傑作を生み出すようになってからわずか2年半、37歳という若さで1890年7月29日、ゴッホはこの世を去りました。

ヌエネンのゴッホの住んでいた家
作品の特徴
ゴッホの作品は、初期のオランダ時代を除くと、印象派を起点としています。また日本の浮世絵に強い影響を受け、明快な色を使い、陰影を廃した独特の遠近法を用いました。
歴史の上では、後期印象派に分類されているゴッホですが、印象派の画家のタッチは、視覚混合を狙った細かなものであるのに対し、ゴッホのタッチは長く伸びたりうねったりと表現主義的。また印象派は自然主義を基本としますが、ゴッホの晩年の作品はしばしば象徴主義的と言われています。印象派が明るい戸外を描くのに対し、ゴッホは夜や憂鬱な人間、社会なども題材としました。強い輪郭線を用いて、画面を色で構成し、人物をデフォルメしたことなども、印象派とは異質の感があります。結局のところゴッホは、印象派や浮世絵の強い影響は受けながらも、自分にしか描けない独自の画法を追求し、非常にユニークな作品を残した画家と言えるでしょう。

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